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虎狼痢(ころり)の幽霊


虎狼痢(ころり)の幽霊  

場所 博物館明治村内 名古屋衛戍病院
期間 2017年7月8日(土)~9月3日(日)
 
  

舞台は陸軍病院

~明治時代の病院で怨念が襲い掛かる~
百年以上前に建てられた現存最古の陸軍病院を舞台に、明治村でしか味わえないオリジナルのホラーエンターテインメントがあなたを恐怖に陥れる・・・。
「名古屋衛戌病院(※現存最古の陸軍病院)」を舞台に、当時実際に世界で流行した「コレラ」という恐ろしい病気の話。

 
■ 「博物館 明治村 虎狼痢(ころり)の幽霊」公式HPはこちら

 

ストーリー

文明開化によって海外からもたらされたものは、文明だけではありませんでした。病気もまた、日本にもたらされたのです。
明治時代は、古くからある前近代的な考え方と近代的な西洋思想が渾然一体となって、社会の様々な局面でその相克が現れた時代でした。病気に対する捉え方には、それが明確に現れていました。
近代的な西洋医学と土俗的な呪術。病いと呪いは、時に融合し、時に対立しながら、人々の生活の中にあったと言えます。
 
近代の夜明けに、日本じゅうで猛威を振るったのはコレラでした。明治時代を通じてコレラの死者数は37万人にもおよび、日清・日露戦争の死者数を上回っています。
その恐怖はパニックを引き起こし、各地でコレラ一揆と呼ばれるような事件も起こりました。
当時、コレラは「虎列刺」「虎烈刺」などと書かれ、また「コロリと死んでしまう」ということから「虎狼痢(コロリ)」「虎狼狸」とも呼ばれていました。当時の流行った絵では、虎と他のけものが合体した姿で描かれることが多く、コレラを虎の化け物のように捉える考え方が一般的だったことがわかります。
当時、コレラの治療薬はなかったため、多くの人々は信仰に頼りました。その一つが「疫癘神 加藤清正の手形」というものでした。加藤清正は、虎退治をしたとして知られた武将です。清正の手形があれば、虎狼痢から逃れられるだろうと考えたからです。
  ●  
串本は、村一番の秀才と言われていました。
彼が16歳になる頃、タエという娘と心を通わせるようになりました。タエは、串本から文字を習うのが大好きでした。
串本が「朝」という文字を教えると、次に会うときにタエは「朝」と紙に書いてきます。「美」と書くと「美」と書いてきます。「愛」と書くと「愛」と書いてきます。
いつしか二人のやりとりは、他の人にはわからない恋文のようになっていきました。
しかし、タエには岩下という許嫁がいました。岩下は、このやりとりを苦々しく思っていました。ひらがなは読めても漢字が読めない岩下にとって、それは自分の入り込めない二人だけの世界のように感じられたのです。
ある時、我慢のならなくなった岩下は、嫌がるタエから無理矢理紙を奪い取ると、それを漢字の読める僧侶に見せました。
「ここになんと書いてあるのか教えて欲しい」
僧侶は、その文字を見て答えました。
「恋と書いてあります」
それを聞いた岩下は激昂しました。
取って返すと、タエを摑まえ、その指を石で叩きつぶしてしまいました。
お前には、字を書く手など必要ない。お前には、百姓をやって煮炊きができる手だけがあれば十分だ。
そう言うと、自分の家に連れ帰り、強引に祝言を挙げてしまいました。
串本は嘆き悲しみましたが、タエはもともと岩下の許嫁です。ただ、悲嘆に暮れるほか術はありませんでした。
やがて、優秀な学校に通うために、串本は村を出て行きました。
  
それから10年の時が流れました。
その頃、日本はコレラの大流行の兆しを見せていました。隣の村では、とうとうコレラの患者が出たらしい。岩下の村でも、そんな噂が囁かれるようになりました。
そこで、岩下は村じゅうにお触れを出します。
すべての家は、その戸口に「清正の手形」を貼ること。
「清正の手形」は、当時コレラを寄せつけないための護符として流行していました。
この手形を貼っておけば、この村から一人としてコレラの患者を出すことはない。
岩下は、そう考えたのです。
しかし、安心したのも束の間のことでした。皮肉なことに、岩下の妻であるタエがコレラに罹ってしまったのです。清正の手形を貼っていて、コレラに罹っていたとなると、自分の面子が立ちません。岩下は、タエを家の奥に隠しました。
時を同じくして、一人の医師が村を訪れました。それは、近くの病院に赴任した串本の成長した姿でした。
彼は、一軒一軒訪ねて歩くと、衛生管理に気をつけることが重要だと訴え、井戸の水を煮沸して使うように説いて回っていました。
岩下は、タエを診てくれるように頼もうとしました。ところが、訪ねてきた串本は、岩下の戸口に貼ってある清正の手形を見ると、こんな迷信に頼っていてはいけないと言って、それを破り捨ててしまいました。
それを見た岩下は激昂しました。
村人たちを集めると、「こいつは人の生き肝を抜いてコレラの治療に使っているそうだ」と言い放ちました。
さらに、岩下は村人たちをたきつけると、竹槍で串本を滅多刺しにしてしまいました。
重傷を負った串本は、病院での治療の甲斐もなく亡くなってしまいました。
  
それから数日後、タエに一通の手紙が届きました。
それが串本からの手紙だということはすぐにわかりました。そこには、一つの漢字しか書かれていなかったからです。
痛みに苦しみながら書いたその文字は震えていました。それは、「怨」という文字でした。
タエは、あの頃と同じように何度も何度もその文字を練習して、串本に返そうと思いました。
けれど、返す相手はもういません。
コレラに冒され日に日に衰弱していく体で、タエはどうやって串本に返事を出したら良いかを考え続けました。
そしてある晩、そっと家を出て行くと、どこかに姿を消してしまいました。
  
それ以来、この村では奇妙なことが起こるようになりました。
朝起きると、戸口に貼られた清正の手形の上に、濡れた女の手形がついていることがあるのです。そして、その手形をつけられた家からは、数日後にコレラの患者が現れるのです。
村人たちは、朝起きると真っ先に玄関を開け、清正の手形を見るようになりました。そこに、女の濡れた手形のないことを見ると安心するのですが、それも僅かの間のことでした。なぜなら、しばらくするとほとんどすべての家の戸口に、女の手形がついているようになったからです。
その女の手形には見覚えがありました。特徴のある潰れた指は、タエのものにちがいありません。
愛する男を失ったタエが、村じゅうに怨念という名の病をまき散らしているのです。
しかし、タエがどこに行ったのか、誰も知る者はいません。誰も、その呪いのもとを断つことができないのです。
村じゅうのほとんどの者が病院の送られてしまった頃、ある者が井戸から水をくみ出した桶の中に、一つの櫛をみつけました。
それは、タエが身につけていた櫛でした。
彼女は、村人への復讐のために井戸に身を投げたのでした。
村人たちが毎日飲んでいた水は、コレラに冒された彼女の死体の浸かっていた水だったのです……。
彼女は、このようにして愛する串本の書いた文字に応えたのでした。
  
その病院では、コレラで亡くなった村人たちの霊が彷徨い歩くと言われています。
それは、死してなお、その魂を成仏させない、串本とタエの深い怨念の所為だと考えられています。
今夜も、恐ろしい手形が現れます。
そんな病室には、決して入らないようにして下さい。

 

Photo

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概要

タイトル 虎狼痢(ころり)の幽霊
URL 「博物館 明治村 虎狼痢(ころり)の幽霊」公式HP
場 所 博物館明治村内 名古屋衛戍病院 
期 間 2017年7月8日(土)~9月3日(日)
時 間 10:30~16:30
料 金 一人600円  各日170組(1組4名まで)
所要時間
Staff
※ 7月15日(土)~8月31日(木)は毎日、その他は土日祝のみ開催
お問合せ 博物館 明治村 0568-67-0314

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